選択の自由と原理原則 パート②
前回の続きとなります。前回のメッセージはこの世の中には物理の法則を包括したもっと大きなルール(原理原則)がこの世を支配しており、だれ一人としてその支配から逃れるものはいない、ということをお伝えしました。
また全てには刺激(選択)と反応(結果)という因果関係が常に影響しあっており、幸も不幸も全ては自身が選択した結果であるということもお伝えしました。しかし、そのように言うと(全ては自身の選択)恐らく皆様の心の中にはこのような疑問が沸き起こってくると思います。
幸も不幸も全ては自らの選択
「それでは『私が生まれながらにもっているこの病気は私自身のせいだというの?』『私が何か問題を起こしたから、私はこのような苦しい環境の中に生まれたというの?』『世界が不平等と不幸で溢れているのは、皆それぞれ各自の問題だとでもいうの?』もしそうだとすれば、この世には正義はなく、この世は不平等で満ちた絶望の世界でしかない…」そのようにいうかもしれません。
勿論、生まれ持った皆様の肉体的な性質や遺伝的なものによって皆様が予期せずに受けてしまった問題もあるでしょう。また、生まれた両親や生まれ育った国、地域、年代によって被る様々な困難や問題もあるでしょう。しかし、ここからはスピリチュアル的なメッセージとなり目に見えないものを信じる努力と勇気が必要となってきますが、それでも皆様に言いたいと思います。それは、私たちは無理やり強いられてそのような辛い過酷な環境、状況に生まれてきたのではないということです。
私は宇宙を創造された全知全能の神はこの世の全てを創造されたとき、その基に宇宙の法則(物理の法則)を置き、その法則を支配、統治する基として人類に何でも自由に選ぶことが出来る「選択の自由」を与え、その上であらゆる生命を創造されたと信じています。
この世の全てを司る原理原則
もしそうであるなら、つまり、神が自由を尊び、全ての生きとし生けるあらゆる生命を自由を基として創造され、地を据えられ、命を与えられたというのであるなら、神は嫌がる私達に無理やり強制によってこの世に生まれる前から先天的に病気の体を与えることはなさらないはずです。(※自らの自由意志を行使してこの世ですききまな生活を謳歌し、悪習慣を選び結果的に病気になる人のことではありません)
また、同じように、悲惨な環境で生まれた人や、国自体が貧しく、インフラが整わないために苦しい生活を強いられる人々、愛のない劣悪な家庭環境で生まれ育った人に関しても、そのような好ましくない環境、生まれてきたくなかった国、顔も見たくない嫌いな両親や人々の元に皆様を無理やり強制により送られることはなさらないはずです。
神自ら原理原則に従う
もし神がご自身が定めた自由意志のルール(原理原則)を破り、私達に与えたはずの自由意志を犯し強制によって私たちを無理やり私たちが望んでいない環境に強いたとするなら神は自らが定めた律法を破ったことになるので神は神であることは出来ません。神は偽りを言われず、ご自身が定めた律法を破られず、決して罪を犯すことをなされないからです。
ある書物にはこのようにあります。
「神の業と計画と目的がくじかれることはあり得ず,またそれらが無に帰することもあり得ない。神は曲がった道を歩まず,右にも左にも曲がらず,また述べたことからそれることはない。それゆえ,神の道はまっすぐであり,その道は一つの永遠の環である。」 教義と誓約3章1節~3節
また別のある書物には神が律法(原理原則)を破るなら「神が神でなくなる」と数ヵ所で言及しています。
「したがって,正義によれば,贖いの計画はこの試しの状態,すなわちこの準備の状態で人々が悔い改めるという条件がなければ成し遂げられない。これらの条件がなければ,正義の働きを損なうことなしに憐れみが効力を発することは不可能だからである。正義(律法)の働きが損なわれることはあり得ない。もしそのようなことがあれば,神は神でなくなる」モルモン書 アルマ42章13節
「しかし,現在,律法が与えられ,罰が定められており,悔い改めが許されている。そして,憐れみは悔い改めを要求する。そうでなければ,正義がその人について権利を主張し,律法を執行し,律法は罰を負わせる。もしそうでなければ,正義(律法)の働きは損なわれ,神は神でなくなる」モルモン書 アルマ42章22節
「そもそも,あなたは憐れみが正義(律法)から奪えると思うのか。いや,少しも奪えない,とわたしは言おう。もし奪えるようであれば,神は神でなくなる」モルモン書 アルマ42章25節
過酷で苦しい環境を選択して生まれる理由
もし、「私たちが自由意志を行使して自身で自分の生まれる時代、国、家族を含めた環境を自ら選んで来た」と考えたなら、皆様はもう一つ大きな疑問を持つようになるでしょう。それは、「では、なぜ私は神が人類に与えた尊い権利を行使して、自ら進んでそのような過酷な環境を選んだのか?」という疑問です。
ある書物には神の栄光と業は人々が永遠の命(至高の幸福)を得させるようにすることと神自らが言及している言葉があります。
「人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと,これがわたしの業であり,わたしの栄光である」 高価なる真珠 モーセ書1:39.
つまり、この神の言葉によれば、私たちがこの世に来た真の目的は「栄光」(至高の幸福)を得るためであり、そして真の栄光、つまり真の幸福とは、いつは朽ちて滅んでしまう幻(物質)のような儚いものではなく、私たちが様々な経験を通して成長し、神に近づき神のようになることです。
そう考えたなら、生まれてくる時に前世で「なぜ、私たちがこのような不平等と思える環境の元に自らの選択によって生まれて来たか」ということも理解できるようになります。つまり、わたしたちが「成長するためには私にはその経験が必要だ」と考えたからです。
豊かで恵まれた環境を選択して生まれる理由
そのことを理解し始めたら更に新たな疑問を持つようになるかもしれません。それは、「では、生まれながらに恵まれた豊な環境を選択して生まれて来た人々は、なぜそのような、つまり成長しにくい、恵まれすぎている環境を自ら選んだのか?彼らは私たちの目的である真の成長ができないとしてでも、儚く短い僅かな人生を快適にに過ごし楽しんで一瞬の豊かな人生を謳歌したかったのか?」という疑問です。
それに関しては私の見解となりますが、そうではなかったと思います。つまり、この世に生まれて来た人の中には誰一人として永遠に続く栄光(真の成長)よりも、目の前の儚い幻のような栄華を望んだ人はいないと思います。ではそれなのに、どうして彼らは、あえて成長しにくいと考えられる極端に裕福で恵まれた環境を選ぶ人がいるのでしょうか?考えられるのはただ一つ、彼らにとってはその環境こそが一番成長できると考えたからです。
私たちは普段何気なく、恵まれた豊かな環境にいる人は間違いなく「幸福な人」で、貧しい環境にいる人は疑いなく「不幸な人」と決めつけている場合が多いように思います。実際にそのようなケースが大半であったとしても、成長という観点から考えた場合、豊で恵まれた環境にいる方が、様々な誘惑(物質、名誉、名声、権力、信仰)や試練(様々なプレッシャーや、嫉妬、妬み、苦難)にあうことで成長できる場合があるのです。つまり、持つものが多ければ多いほど、人によってはそれが様々な悩みや苦難、恐れ、神への信仰に対する誘惑などを経験し、成長することが出来るのです。そして、その道が自分が成長できる環境であると理解した人々は、天から与えられた自由意志を行使して、傍目からは恵まれている、と見えるそのような環境を選んだのでしょう。
苦しい環境は人を謙虚にし成長させる
しかし、これも私の見解ですが、多くの人々はそうではなく、過酷な環境を自ら選んだ人が多かったと思います。なぜなら、苦しい過酷な環境に居ればいるほど、様々な苦しみを知り経験することで、より謙遜になり、より神に頼り、信仰心を持ち、より成長しやすいからです。新約聖書の中で実際にイエスキリストは人々にこのように諭しています。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」
マタイ5章3節~10節
これらのイエスの言葉は「八福の教え」とされ、キリスト教圏にお住いの方々であればだれでもよく知る有名な言葉で時々ビジネスや啓発でもよく引用される言葉です。
原理原則を理解すると世界が一変する
「良くも悪くも生まれて経験した全ての経験や今目の前に置かれている立場、環境、現状の全ては自らが選び選択してきたものであり、その結果 回復の原則によって現象が目の前に現れているのだ」ということを悟り、理解するなら、私たちは今見ている世界はまったく別世界に映り、また物事をこれまでと全く違う視点でこの世の出来事を見るようになるでしょう。
そして、これまで何気なく家族や環境に対して口癖のように放っていた不平はなくなり、これまで取っていた態度、考え、発言、行動を改め、これまで日々の生活で意識せず選択していた一つ一つの選びに対して責任をもつようになり、もっと思慮深い行動、選択をするようになるでしょう。
簡単ではないですが、皆様が日々の生活の中で常に意識して以上のこと(全ては自身で選び選択したもの)を噛みしめ、ことあるごとに思い返すならば、私たちは目の前にある問題を周りの責任に転嫁しようとせず、自らこの現象に対し真摯に受け止め然るべき言動や行動をとるようになるでしょう。
そして、そのような思考、言動、行動を少しなりとも行えるようになれば、その瞬間から皆様を束縛し、制限し、支配する闇の鎖から解放され無限の自由を経験し始めます。そして、真の幸福を体感し無上の喜びを理解するようになるのです。
皆様が皆様自身を縛る強固な鎖から皆様自身を解放できるよう願っています。
皆様が今生で生まれてきた目的を理解し、達成し、喜びを得られますように。
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