皆様、おお元気ですか?
札幌はかなり雪が解け始め、既に春が来たような陽気となってきました。
今年の北海道は春の到来が早いかもしれません!!
皆様のお住まいはいかがですか?

 

さて、これまで3回に渡って「回復の原則」というテーマを取り上げ、私たちの思考が言動や行動に繋がり(広がり)、またその思考、言動、行動はエネルギーの波紋となって皆様の内側から外側へと広がっていき、またその広がった波紋は障害物(人や物)にぶつかってやがて自分に戻ってくる、という事をお伝えしました。

また私たちの夢が実現するかどうかは「思考」(エネルギー)の強弱にあり、また思考の強弱は私たちの「フォーカス」(集中)に現れ、フォーカスは「想い」であるという事をお伝えしました。

つまり、思考は「想い」によって「万物創造」の力を行使し、良くも悪くも時々刻々私たちは有形無形を問わず常に何かを作り出し(生み出し)ているという事をお伝えしました。

そして、私は究極の「フォーカス」つまり「想い」は「祈り」であると考えています

今回は究極の「回復の原則」である「祈り」について詳しく解説したいと思います。

 

以前、皆様の叶えたい夢、願い事、将来達成したい目標など、それらを叶えるためには幾つかのステップがあることをお伝えいたしました(「ビジョン具現化の必須要素① ~5つの要素~」)。

そして幾つかあるうちの最初のステップは(私は引き寄せの法則でもっとも重要だと考えています)それは心から沸き起こる「強烈な願望(望み)」であるとお伝えしました。

ビジョン具現化の必須要素① ~5つの要素~

 

そして、それら皆様の願望を更に効果的に叶える方法、別の言い方でいえば「流儀」または「作法」は、「祈り」であるとお伝えします

「祈り」はこの世を創造した神の「摂理」(宇宙の法則を含む原理原則)なくては何ものをも具現化することはない、皆様の夢、目標を具現化するために神に願う正式な作法です。


創造の神は私たちの霊の父親なので、愛する子供である私達が心の底から神に願い求めるなら、心打たれ、またその願いが子供たちのため(成長)のために必要でなら、その願いを断る理由などどこにあるでしょうか?

新約聖書の マタイ 7章7節~11節の中でイエスキリストは神がどのような想いで子供達である私たち一人一人が幸福になることを望んでおられるかを分かりやすく説明しています。

 

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者捜す者見いだし門をたたく者あけてもらえるからである。あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。」

 

この聖句から天の父なる神は私たちの願いを叶えたくて仕方がないことを理解出来るでしょう。

では、これだけ私達のことを想い、私たちを愛し、私たちの願いを叶えたいと考えておられる創造主である神が実際には多くの人々が願い求める夢を実現してくれないのはなぜでしょうか

 

実は神が私たちすべての人々の願いを叶えてくれない理由と神が私たちの願いを叶えて下さるための重要な鍵が 次のマタイ 7章の12節に記されています。

 

「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者良いものを下さらないことがあろうか。」

 

この聖句の中から答えを見つけられましたか?

 

求めてくる者に

 

そうです。これ(求める)が私たちの願いが実現ない究極の答えです。

 

 

夢実現の鍵は「求める」ことにあり

自然界では親鳥が巣でお腹をすかせた雛たちに餌を与えるのは大きく口を開き、大きな声でアピールする雛から順番に餌を与えます。

残念ながら口を開けず、声も出さない(求めない)ひ弱な雛は餌を食べられず、可哀そうですが成長して生きながらえることはありません。

人も同じです。

神は自由意志を何より重んじるので、私たちが望んでいない祝福を無理やり口を開けさせ強制的に喉元に押し込む(与える)ことはなされません

言い方を変えて言うと、神ご自身が定めた律法によって、たとえそれが本人が望んでいるものであったとしても、本人が「求めない」、または「それほど求めていないもの」を、神が定めた自由意志の律法があるために律法を犯してまで強制して無理やり私たちに与えることはお出来になれないのです。

厳しいようですが、これは神が定めた摂理であり、自然の法則です。

 

神は万物創造の際、人々が進歩成長し喜びを得られるように法則と律法を据えられましたが、その基に「自由意志」を据えました。

自由と聞くと、「尊く素晴らしいもの」と思われるでしょうが(実際その通りです)、実は多くの人は自由の表面的な側面しか理解していません。

多くの人々は自由が持つもう一つの側面である「責任」について完全に理解していないか、意図的に見ないようにしています。

分かりやすく説明しましょう。

 

「私には言論の自由がある!」と言って誰彼構わず人の悪口を言い続け、多くの人を貶め続けるなら、やがてその人は誰からも相手にされず、やがてその人は孤立するでしょう

その時になって「私は誰からも愛され、尊ばれる権利がある!」と大声で自由を主張しても誰も耳をす人はないでしょう

 

また、「私には何でもする自由がある!」と言いながら何らかの犯罪に加担した場合、もし捕まれば、裁判を受け、法律に従って然るべき刑に服し場合によっては投獄され自由を奪われることになります

その時になって「私は誰からも束縛されることなく、自由でいる権利がある!」と叫んでも自由に付随するもう一つの側面である「責任」から逃れる自由はその人にはありません

 

つまり、「自由」を乱用し、自由気ままな行動によって神が定めた尊い自由を汚すことがあれば、その人には「自由」に付随する「責任」が効力を発動し、結果的にその人の自由が奪われることになります

真の自由には責任が伴うのです。

 

 

祈りの作法

では、夢実現の究極の「フォーカス」である「祈り」の作法とはどのようなものでしょうか?


実はそれほど難しくはありません。

まず最初に全知全能の父なる神様に呼びかけることから始まります。

これは当たり前ですよね。


普通会話する際に対象者を明確にせず話しかけるようなことはしません。
祈りの最初のステップは万物の創造主(クリエイター)である神に対し、人が人に語るように話しかけるのです。

 

次は、日々与えられている様々な「もの」に対し神に感謝します。(時間、才能、機会、家族を含め皆様が生かされ、また成長するために与えられた全ての物)

これも当たり前のことです。

現代社会では「感謝する人が少くなった」ということを憂う知識人がいますが、聖書には、民と国が荒廃し滅亡するときには人々の中に「愛が冷え込む」時と書かれています。

そう考えると「感謝」という「徳」を失った時、民と国は滅亡に向かって進んでいる一つのバロメーターになると言えるかもしれません。

 

「終わりの時には、困難な時代がやってくることを承知していなさい。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、親不孝な者、感謝することを知らぬ者、汚れた者、情愛のない者」

                   第二テモテ3章1~15節

 

「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷え込むであろう」

                    マタイ24章12節

 

この神に「感謝」するという機会は神に対する作法というだけでなく、神への感謝を通し、如何に私たちが様々なものを与えられており、決して私たちだけの力で生かされているのではないという事を思い起こす機会にもなり神の大いなる愛に圧倒されもっと神を愛するようになります。

本来ならこの行為(正しい祈り)によって人は謙遜になることが出来るのです。

 


そして、私たちが正式な祈りの作法により神に呼びかけたら、次はようやく私達の願い、願望、夢を含めた皆様の願いをにリクエストする時間です。

前述したように、天の神は愛する子供達である人類である私たちの幸福を心から願っています。

また、神はご自身が定めた「自由」の律法があるために、人が良くも悪くも自ら欲するものを止められません

神はそのために自由意志を私たちに与えられました。私たちは神から与えられた自由意志の律法の中で原理原則に反しない限り何でもそれらを手に入れることが出来ます。

聖書の中でイエスは「山に移れと言えばそのようになる」と言っています。

 

ただ、もし皆様がそれらを手に入れられていないとすれば、理由は大きく分けて2つあります。

 

  • それほど欲していない。
  • 夢実現に対し「対価」(責任)を払おうとしていない。

 

皆様は自由に何でも祈り、願い求めることが出来ますが、祈りをすると同時に肝に命じなくてはいけないことは、真の幸福(成功)には責任(相応しい対価)が求められるという事です。

皆様は祈る時には同時にその責任を引き受けることを肝に命じ、相応しい願い事(祈る)をすることを理解していただきたいと思います。

 

❖祈りの流れ

基本的な祈りの作法はこのような流れです。

私はクリスチャンですが、この祈りの作法は皆様にも大いに参考になるはずです。

またクリスチャンの祈りは最後に「イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン」で祈りを結び固めますが、イエスキリストの名前で祈りを終わる理由は、神が私達が背負っている大小様々な罪を贖い救うためにお送りくださった仲保者である「イエスキリスト」の名前によって祈るようにと神がお命じなられたのでそのようにします。(アーメンには「同意する」「以上」「完結」等の意味があります)

整理すると以下のようになります。

 

  1. 創造主である神に呼びかける
  2. 感謝する
  3. 願い事をする
  4. イエスキリストの御名によって祈りますアーメン。で祈りを終える

 

 

祈りをブースト(強化)させる!

以上がクリスチャンとしての正式な祈りの作法です。

これはあくまで一般的な祈りの作法ですが、私は更に祈りを強力にブースト(強化)させる方法をお教えしたいと思います!

それは③の「願い事をする」と④番目の「イエスキリストの名前によって祈りを完結する」の間にもう一つ項目として、ある項目を付け加えることです。

では、更に祈りの効力を高める項目とは何だと思いますか?

 

それは、

 

「私は『○○』を犠牲にします」(※○○は皆様が神様に願い事をする際に皆様が神に捧げる「願い」に対し「相応しい」と考える「犠牲」(対価)です)

 

という言葉を加えることです!

 

つまり、祈りを分かりやすく言えばこういう事です。

 

「神様(創造主)、私は心から○○を実現し、叶えたいと願っています。ぜひこの夢を、叶えていただけますようお力をお貸しください」(※多くの祈りはこれで終わっている)

 

祈りをブーストさせるにはここからが肝心です!

願い事の後、この言葉を付け加えるのです!

 

「神様、私はその夢をかなえていただくために代わりに私の『○○』犠牲(対価)としてあなたに「捧げ」ます

 

つまり整理するとこのようになります。

 

  • 神に呼びかける
  • 感謝する
  • 願い事をする
  • 犠牲を払う(夢実現の対価を明確に表し神に捧げる)
  • イエスキリストの名前によって祈りを終える

 

この④の「犠牲を払う」が入ることで祈りは更にパワーアップされ、皆様の夢はより実現に近づくでしょう。

 

 

対価を支払う

「犠牲を支払う」これは究極の祈りの作法です。

本人である私たちは古代からごく自然にこの祈りの作法を文化、伝統、習慣の中で行ってきました。

皆様はこれまでに一度は年末年始や特別な祈願があるときなどに近所の神社に参拝し、神に祈った事があるでしょう。

皆様は境内に入り神前を目前にし、神に願い事をする際、まず賽銭箱に幾らかのお賽銭を投げ入れた経験があると思います。

しかし、賽銭を投げ入れる前にどうして賽銭を放り込むのかあまり深く考えたことはないかもしれません(日本人にはそれは当たり前すぎて)。

また、賽銭を投げ入れるだけでなく、家に神棚を祀っている家庭では、毎朝毎晩水を入れ替え、小さなお茶碗にご飯を盛りつけたり、お水を供えたりしたのを見たことがあるはずです

仏壇が家にある方も同様に仏様、ご先祖に祈る前に毎朝毎晩同じように捧げものをし、同時に神とご先祖の前にお香を焚いて天に「祈り」と一緒に「犠牲」を捧げるのです。

これら日々の小さな「捧げもの」を皆様は犠牲などとは考えずに生活の中で自然に祈る(幸福を願う)際の責任(対価)としてそれを行っているのです。

これらは、祈りの作法であり、祈りをより効果的にするための「犠牲」(対価)の象徴です。

また、 聖書には度々「断食の祈り」について書かれている記述が多くありますが、この「断食の祈り」も祈りをブースト(強化)させる祈りの方法です。

この「断食の祈り」はキリスト教に限らず、多くの宗派でも特別な祈りを捧げる際に断食して祈ることはよく知られていることですが、これも神に願いを叶えていただく対価として「犠牲」を捧げる特別な祈りの方法です。

また「断食」を伴う祈りを行う時には、否が応でも飢えと渇きが伴うために断食中は祈願の趣旨目的を忘れず常に意識しながら神に祈る(想う)ことが出来ます。

聖書の中に悪霊に取りつかれた人を助けるための悪霊を出そうとしたイエスの弟子たちが悪例を出せず困っている弟子に向かってイエスはこのように言っています。

「しかし、このたぐいは、祈り断食とによらなければ、追い出すことはできない」。

マタイ17章21節

実際にイエスキリストご自身も悪魔の誘惑に試みられるために荒野に入られるときには40日40夜断食したと記述されています。

 

さて、イエスは御霊によって荒野かれた。悪魔みられるためである。そして、四十四十断食をし、そののち空腹になられた。」

マタイ4章1節~2節

 

もし皆様が、この「犠牲を払う」という対価を払わず、自分の願望だけを一方的に願い求めるだけの祈り、

つまり、「私の願い事だけは聞いてほしいけど、私は何もしたくない(対価を払わない)、」というのであれば、その祈りの効力は弱いです。。

 

❖「対価」は「行動」

前回の記事「回復の原則③」~フォーカス(想い)は夢を具現化させる~」の中で紹介した私の少年時代のことを思いだしてください。

少年だった私は、犬を飼うために、毎日犬の研究をしました。

また、近所のゴロウという犬を可愛がり、毎日給食のパンの半分を残し、学校帰りにゴロウにパンを与え続けました。

また、学校から家に帰ると直ぐに近所のペットショップに出かけ、毎日犬の観察を行い、店員に犬に対する疑問を尋ね犬の習性を学びました。

夜両親が仕事から帰ってくると犬を飼う事を反対する両親に犬を飼う利点を毎日プレゼンしては両親を悩ませたりもしました(笑)。

そして、最終的に私はあまりにも犬のことで根を詰めすぎてしまったために、頭に500円台の大きな禿まで作ってしまったのです。

つまり、私はただ犬を飼う事をただ願うだけではなく、犬を飼うために当時の少年が考えうる全てを行ったのです。

私は結果的に14年共に過ごした大切な家族となった秋田犬の「マル」を家に迎え入れ、ともに多感な青春時代を過ごし、素晴らしい時間を過ごしました。

その当時、私はこれらを犠牲だとか、責任だとかは一切考えたこともありませんでしたが、その後何十年経った今振り返って見ると、確かに私は知らない間に祈りの作法に近いことを知らずに行っており、そのことをご存じの天の父なる神が回復の原則に従って、その願いをかなえて下さったということを知りました。(欲しいものを明確に口に出し、いつもそのことを願い、常にフォーカス(想っていた)していた。またそのために常に何かを行っていた)

 

「回復の原則③」~ ”フォーカス”(想い)は ”夢” を具現化させる~

 

 

 

信仰は祈りをブーストさせる!

皆様は過去3回に渡りお送りした「回復の原則」シリーズを読まれ、「フォーカス」(想い)この言葉が私たちが成功を具現化する鍵になるということを既に理解し始めていると思います。

そして私はこの「フォーカス」という言葉を別の言葉に置き換えて例えるならそれは正しく「祈り」であるとお伝えします。

私が言う「祈り」とは、毎回決まり決まった事務的な想いの込められていない羅列を並べるだけの機械的な祈りではありません。

真の力強い祈りには覚悟が伴います。

力強い覚悟ある祈りを分かりやすく説明すれば、人は人生で大きな試練や苦しみに出会った時、また母親であれば、最愛の子供が大病や大きな怪我に見舞われたようなときに、目に見えぬ大いなる存在に心からの願いを込めて祈るはずです

そして、祈る際には「もしその願いが叶うならば、自分の命をも差し出してもかまならい!」という「覚悟」をもって祈ることでしょう

これらの切実な祈り」は究極の「フォーカス」(想い)という事がいえます

 

そして、ブーストした究極の祈りを更に効果的にその効力をもう一段階上げる方法があります!!

イエスキリストはこの「祈り」(フォーカス)に関してさらに重要な要素についてこのような説明をしています

 

「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになるであろう」

マルコ11章24節

 

祈り効果的にが具現化する方法は「フォーカス」(集中)と「犠牲」(対価を支払う)ですが、聖書のイエスキリストの言葉から、もう一つの「重要な要素」が何か分かりましたか?

ここに祈りが叶えられる「正しい祈りの鍵」が隠されてあります。

 

それは祈る時にはすでにかなえられたつまり、

 

祈る時に、それが実現したと疑いなく信じ』て祈ることです。

 

無宗教な人でも人は何か「切実に困ったこと」や、「何がなんでも叶えたい」切実な願いがあるときには、何かにすがり、祈ります。

そして、それが実際にはそれが祈りだとは気付かないうちにそうしている場合が多くあります。

しかし、もし皆様が何かを「願い」「祈った」後に心の中に不安な想いを持ち続けているなら、そして気持ちが落ち着かないでいるなら、イエスの正しい祈りから解釈すると、その人は正しい祈りを実践していないことになります。

どういうこと?

 

それは、既にかなえられたと本気で疑いなく信じている人は、祈った後に恐れや不安を抱くことはないからです。

 

皆様、考えてください。

皆様は実際に夢が叶い、願ったものが実際に手の中に持っていたなら、そのことに対し、何を疑うでしょう。

疑うはずなどありません。

それは既に「手にしている」からです。

 

既に願いが叶った人(既に手にしている人)は感謝し、喜び、また神を賛美することはあっても、恐れたり不安に駆られることはありません。

 

またイエスキリストは信仰についてこのようにも言っています。

 

「するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう

マタイ17章20節

 

イエスは「真の祈り」(究極のフォーカス)があるなら何でも具現化する、という夢実現の種明かしを今から2000年前にしていました。

皆様が何かを願ったあと、また祈ったあと心落ち着かず、不安な思いがある人は全知全能の神からすると、「神は何でもお出来になる」という神の能力を疑っていることになります。

 

新約聖書 マタイ14章22節~33節の中である朝イエスが風が強い中、湖面の上を歩いている場面が記述されています。

舟に乗った弟子たちはそれを見た時に「幽霊」だと言い恐れますが、イエスは「しっかりしなさい、わたしだ」と弟子たちに話しかけようやく弟子たちは我に返ります。

湖面を歩くイエスを見た弟子のひとりペテロはイエスに向かって、『主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。』そういうと、

イエスは『来なさい』とペテロに命じました。

すると、驚くことにペテロもイエスと同じように湖面を歩き、そして力の源そのものであるイエスに近づいたのです。

ペテロは「神は何でもお出来になる」ということを純粋に信じており実際に信仰を行使したのです。

しかし、イエスに辿り着く前に突風によって大波が起こり、大波を見て恐れた時にペテロは湖面に落ちてしまいます。

ペテロは水に溺れそうになりながら大きな声でイエスに向かって『助けてください!』叫びますが、

イエスは水に溺れかけるペテロの手を掴み舟の中に引き上げながら、ペテロに向かって声を掛けられました。

これはペテロと全世界の人々(成功を夢見、もがき苦しむ人々)に対して信仰の本質を投げかける象徴的な言葉です。

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」

 

「それからすぐ、イエスは群衆解散させておられるに、しいて弟子たちをませ、こうにおやりになった。

そして群衆解散させてから、るためひそかにられた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

ところがは、もうすでにから数丁れており、逆風いていたために、まされていた。イエスは夜明けの四ごろ、いてらのかれた。

弟子たちは、イエスがいておられるのをて、幽霊だとっておじい、恐怖のあまりをあげた。

しかし、イエスはすぐにかれらにこえをかけて、「しっかりするのだ、わたしである。おそれることはない」とわれた。

するとペテロがえてった、「よ、あなたでしたか。では、わたしにじて、ってみもとにかせてください」。

イエスは、「おいでなさい」とわれたので、ペテロはからおり、いてイエスのところへった。

しかし、ろしくなり、そしておぼれかけたので、んで、「よ、おけください」とった。

イエスはすぐにばし、をつかまえてわれた、「信仰よ、なぜったのか」。

ふたりがむと、はやんでしまった。

にいたたちはイエスをして、「ほんとうに、あなたはです」とった。」

マタイ14章22節~33節

 

皆様は皆様の夢が叶うと信じていますか?

それとも「叶えば嬉しいな」とまるで他人事にように考えていませんか?

皆様自身の可能性を信じていますか?

それとも皆様は「自分には何もできない」と信じていませんか?

皆様が望むなら何でも実現することが出来ると信じていますか?

それとも「夢が実現する人はほんの一握りのたまたま運のいい人だと」信じていませんか?

宇宙を創造し、命を創造し、命が更に進化し、進化することでより高い喜び(成長)を得られるように全てを組織した(仕組みを設けた)万物の創造主が何でもお出来になると信じていますか?

それとも宇宙が出来たのは単なる偶然が幾つか重なっただけのたまたまの奇跡で、多くの生命が誕生し、人類が誕生したことも多くのたまたまが重なった偶然に起こった自然の気まぐれだと信じていませんか?(ある科学者は生命が誕生し、人類が偶然幾つかのたまたまが重なった偶然であるとすることは全くもってあり得ないことで、例えるならそれは「筆を振って300メートル先にあるキャンパスに向けて精工なモナリザの絵を描くのに例えることが出来る」つまりそれはどのような奇跡が幾重に重なっても決して起こり得るものではない。と断言している)

 

もし皆様が宇宙が誕生し、宇宙に数多の生命が生まれ人類が誕生したのが偶然ではなく、万物の創造主である神であると信じるなら、私たちの想いと行動に大きな変化が生じ、私たちは全く違う視点をもって未来を展望するようになるでしょう。

なぜなら、全ての出来事は偶然ではなく、何らかの意図をもって創造され、私たちも偶然ではなく何らかの意図をもってこの世に誕生し、また日々私たちを見守るのはビジョンがあり、大いなる意思をもち、わたし達を心から愛し、私たちに対して常に大きな関心を持ち、私たちが何を考え、何を行い、どのようになるかを期待し、私たちの成長を幸福を心から喜び楽しみにしている神が常に近くにおられると考えるなら、私たちの思考と行動と今後の展望に必ず変化が生じるはずだからです。

 

「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」

マルコ11章24節

 

この言葉はその神の一人子であるイエス・キリストが人類に語った言葉です。

 

 

「回復の原則」を理解すると起こる変化

皆様これまで3回シリーズで 「回復の原則」をテーマにメッセージをお送りしてまいりました。

また回復の原則は「想い」をある物事に「フォーカス」することでそれが自分に良くも悪くも跳ね返って戻ってくる(回復される)と説明しました。

そして「祈り」(想い)は波紋となって皆様が中心となり周りの世界に影響を与え、世界を巻き込みながら、やがて自分に返ってくるということも説明いたしました。

皆様はこの原理原則を理解されましたか?

もし皆様がこの原則を本当の意味で理解されたたなら今後の皆様の人生においてもう以下のようなことはなくなるでしょう。

 

・人を裁かない(裁かれないようにするため)

・ネガティブなことは考えない(思考は具現化するため)

・悪口を言わない(自分が非難されないため)

・嘘をつく(自分が騙されないため)

・盗まない(盗まれないようにするため)

・誰も仲間外れにしない(自分が孤立しないため)

・心配しない(良くも悪くもフォーカスしたことが現実化する)

 

他にもいろいろありますが、すなわち皆様が嫌なことを考えたり、行わなくなったりするという事です。

 

反対にこれらの原則を理解した皆様はこのような態度を取るようになるでしょう。

 

・人を赦す(神から赦されるため)

・人を褒める(神から祝福されるため)

・常に正直でいる(いつの日か正義が回復されるため)

・周りに与える(天から与えられるため)

・孤独な人の傍に寄り添う(天使が寄り添ってくれるため)

・常にポジティブな発言をする(様々なポジティブが相乗効果を伴って戻ってくる)

・常にワクワクする(人生が冒険に満ちた素晴らしい旅路となるため)

・常に笑顔でいる(人生をより豊かなものにするため)

・常に楽しむ(来るべき日に「楽しい人生をありがとうございました!」と神に報告するため)

 

最後に

 

皆様いかがでしたか?
回復の原則について4回に渡ってシリーズでメッセージをお送りしてきましたが、回復の原則を理解することで皆様の身の回りに起こる様々な現象や出来事が実は私が影響を及ぼしてきていたもの多々あることが理解できましたか?
また、それによってこれまで分からなかったこと、また分かりたくなかったこと、認めたくなかったことなどが点で繋がり、自分にも原因があることを理解できたのではないでしょうか?

皆様にとってそれは辛いことかもしれませんが、しかし、それは皆様がその場から前進するために必要な気付だったと知っています。

回復の原則を理解することで皆様の人生が更なる成功と喜びで満たされるようになることを心から願っています!!

もし、皆様にとって役に立つ、または気付きとなる内容などがありましたら、ぜひとも下記コメント欄にご意見ご感想をお知らせくださいませ( ^)o(^ )
皆様の感想とフィードバックは私のさらなる成長とモチベーションに大いに役立ちます!!

さて、次回は回復の原則の最終版「回復の原則⑤」~国をその国たらしめるのはその国の民~(仮題)をお送りします!!


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