皆様、

お元気ですか?
本州で桜が散り間もなくして北海道にも少し遅れて桜前線がやってまいりましたが、

先週から今週にかけて満開だった札幌の桜も概ね散ってしまいました。

今年も桜は裏切ることなく、素晴らしい花々を咲き誇らせ見るものを喜ばせてくれました!

私達も桜のように、毎回当たり前のように人々の期待に応え、満開の花を咲かせる、そのような頼もしい人格を形成したいものですね。

 

さて、本日は人生を満開の桜のように花開かせ、周りの人々を喜ばせ、励まし、一生が終わる時には「思い残すことなく、晴れやかな気持ちで感謝しながら人生の幕を閉じる」そのような最高の人生となるための原則について記事をお送りします!

 

 

成功(幸福)と共に拡大する人との人間模様

人は様々な分野で成功(幸福)し始めると、成功の拡大に伴い避けては通れないさま様な人間模様を経験します。

 

それはどのような経験でしょうか?

 

成功の度合いに比例してこれまで知らなかった人との関わりがどんどん増えてくる。

・多くの人と関わることで、これまで経験しなかった楽しみを経験する。

・多くの人と関わることで、これまで経験しなかった煩いを経験する。

・多くの人と関わることで、これまで経験しなかった喜びを経験する。

・多くの人と関わることで、これまで経験しなかった悲しみを経験する。

・多くの人と関わることで、これまで経験しなかった愛を経験する。

多くの人と関わることで、これまで経験しなかった裏切りを経験する。

・多くの人と関わることで、これまで経験しなかった人の素晴らしさを知ることになる。

・多くの人と関わることで、これまで経験しなかった人の愚かさを知ることになる。

・多くの人と関わることで、人を赦せないと感じる経験をする。

・多くの人と関わることで、それでも人を赦さないといけないと考えるようになる。

多くの人と関わることで、全ての人に対し愛おしさを覚えることになる。

・多くの人と関わることで、他人の喜びが自分の喜びとなって帰ってくることを知るようになる。

・多くの人と関わることで、自分を忘れ他人に奉仕することは副産物として自分の成長と成功に繋がっていることを後に知ることになる。

 

これらは、皆様が様々な成功していくうえで避けては通れない成長に必須の経験です。

皆様はこのような成功に伴い皆様が経験する様々な経験を箇条書きに見てどのように感じますか?

 

 

成功に伴い生じる責任と得られる祝福

私が皆様にお伝えしたいことは2つです。

 

①全ては表裏一体、もし幸福を求め願うなら、それに伴う責任をも同時に引き受けなければならない。

 

幸福だけを望みながらそれに付随する責任を受け入れないことは自然の法則に反しています。

責任の伴わない成功や幸福はこの世にはありません。もしあったように見えても、それは一瞬の儚い夢幻です。

そのような成功紛いのものは一時的なバブルのようなもので暫くするといずれは消えてなくなってしまいます。

真の幸福には必ず責任が伴うのです。

 

②成功と幸福にはそれに伴う責任を負わなければならないが、一旦その責任を引き受けて努力するなら、その支払った対価は、幸福と責任を天秤に掛けた場合、責任に伴う努力よりも遥かに成功を通して得られる喜びの方が大きい

 

日々様々な分野で努力し、何らかの分野で実際の成功を経験している方なら私がお伝えする意味をある程度理解していただけることでしょう。

 

もし、この意味をそれほど理解出来ない方がいるなら、それは、皆様が幸福を掴むために伴う責任の割合(努力)が足りないか、あるいは、責任を支払ったあとに訪れる幸福が訪れるまでのタイムラグ(時間差)の過程にあるのかもしれません。

 



 

 

真の成功(喜び)にはタイムラグがある

皆様に知っていただきたいのは大抵の場合、健全で正しい成功と幸福は皆様が支払う責任(努力)を行ってから結果が見えてくるまでにはある程度のタイムラグがあるということです。

 

つまり、健全で正しい成功を望むなら、それに伴う努力を支払ってから実際の成功を経験するまでのタイムラグも同時に考慮しなければなりません

 

多くの人は種を撒いた次の瞬間に成功の果実を刈り取ろうとしますが、それは自然の法則に反しています

全ての健全で正しい成長と成功には必ず正しい労働を行ってからある程度のタイムラグがあるのです。

 

これは単にビジネスに留まらず、植物や動物を育てること、また人間関係を発展させ、より堅固な信頼関係を築く上でも同じです。

 

たった一つの成果を上げるだけで、ある人が完全に信頼されたり、また、たった一つの善い行いだけで悪人が行った過去の多くの過ちが帳消しになることはありません。

 

1度だけではなく、真の成功には繰り返し行われる反復が必要ですし、努力を人に認めてもらうためには努力と時間が必要なのです。

 

皆様が人生で多くの成功を実現したいと望むなら、ぜひ、成功に伴う責任をも甘んじて受け入れる覚悟をしていただきたいと思います。

 

 

問題が起きた時にとる皆様の態度が成功に影響する

既に述べたように皆様がその労力と努力を支払うなら、皆様の犠牲を相殺して余りある多くの成功と幸福掴むことでしょう。

 

今日お伝えしたいメッセージは、上記に上げた、皆様が大きな成功を掴む過程で訪れる多くの人々との関りに伴い沸き起こる様々な出来事、特に当座は喜ばしくない一見ネガテイブと思える出来事に対峙する時に、

 

皆様がどう反応するか?

 

また、どのような態度をとるか?

 

が将来皆様が成功の側にいるか、反対の側にいるかの大きな分かれ道になることを知っていただきたいと思います

 

 

❖人間関係を良好なものとする唯一の方法は「赦す」こと

では、どのようにしたら成功に伴い訪れる様々な人間関係に対し、良好な人間関係を構築する上でどのようにすればよいのでしょうか?

 

一言でいうと、

 

「愛し、赦し、過ぎ去った過去のネガテイブな出来事は、水に流して、忘れる」

 

ことです。

 

これはビジネスだけではなく、人間関係、そして大切な家族関係も含めた全ての人間関係が良好な関係が築かれるかどうかは「良い時」ではなく、誤解や、不信感、その他多くの人が交わる時に生じる「ネガテイブな問題に対峙する時」に、「どのように向き合い」また「どのように対処するか」にかかっています

 

 

全ての人は自身に制限の枠を勝手に設けてしまっている

ビジネスに留まらず成功を決意して前進しようとする多くの人が、途中心半ばで挫折し成功を諦める大きな要因の一つに、「様々な人間関係上のトラブル」が上げられます。

 

これは、組織の大小を問わずです。

 

これを別の言い方で表現すると皆様の成功を阻む最大の敵は「成功と共に訪れる避けて通れない、人と人の人間模様」ということができます。

 

つまり、突き詰めると、人を傷つける、傷つけられる、許す、許さないがビジネスを含め人生における全ての成功の分岐点となるのです。

 

「そんなこと言っても、悪いことをされれば、また意図的でなくても結果的に人を傷つけるようなことをしたなら、怒るし、場合によって裁かれるのは当然ではないか!」というかもしれません。

 

そのような人は、皆様ご自身が勝手に定めた大小それぞれの枠を設けて「その枠の中に収まるか、収まらないか」でその人を断罪したり、また許したりしています。

 

つまり

 

「この枠内に留まるなら愛してあげよう」

「この枠内に収まるなら許してあげよう」

「この枠の範囲内であれば助けてあげよう」

 

という具合にです。

 

 

しかしこれは逆説的に言うなら

 

「この枠から少しでも出たならあなたを決して愛さない!」

「この枠から少しでもはみ出したらあなたを決して許さない!」

「この枠から少しでも出ようものならあなたを決して助けない!」

 

という条件付きの愛、または条件付きの信頼関係ということが出来ます

 

そして、少しばかりでも自分が定めた枠を出た瞬間、その人を罪人に認定し、その人を徹底的に極悪人に仕立て上げていくのです。

 



 

完璧な人はいない

 

しかし、人のことはさておき、自分のことを考えてみてください。

皆様は失敗はしませんか?

またこれまでの人生を振り返ってみた時に些細な過ちは犯さなかったですか?

 

ひょっとしたらこのブログを読まれる方の中に、

 

「私は生まれてこの方人生で一度も罪を失敗したことがないし、過ちも犯さなかった!」

 

という方が居るかもしれません。

 

しかし、法律に抵触するような罪でなくても、また皆様が「常識の範囲内」と考える行動でも、他人からすれば、それは非常識で「許しがたい害悪」となる可能性があるのです

 

そういうと皆様はこういうかもしれません。

 

「そんなことを言ったら法律も要らないではないか?全てが常識という不確かなな主観で判断されるなら、裁判官も警察も意味がないではないか?」

 

というかもしれません。

 

私がいうのは、あくまでも物質的な被害や身体に被る被害のことは言っていません。あくまでも人間関係での精神面での些細なトラブルのことを言っています。

 

これは難しい問題で、人を許す許さないという線引きをどこで設けるか、というのはその人の成長と人間性にも大きくかかわってきますので、決して全てのことに関して許しましょう、とはいいません。

 

もちろん場合によっては物質的な被害、また肉体的な被害を受けても許せる人はいますが、今日は「どこまで許さなければならないのか」という深い部分まで掘り下げてお伝えしません。(いつかこのデリケートな問題についても取り上げたいと思います)

 

 

人が見る世界はその人にならないと分からない

非常に興味深い話があります。

以前Dカーネギーの「人を動かす」という本を読んでいた時に「なるほど」と思ったことがあります。

本の冒頭でカーネギーはニューヨークで起こった犯罪史上稀に見る凶悪犯「クローレー」の話を引用しています。

多くの人を信じられないくらいの些細なことで多数殺め、最後にはビルに立てこもり大銃撃戦によって何人もの警察官を殺害した末に捕らえられたこの大凶悪犯は、この世の最後に電気椅子に座らされ、最後の言葉を求められた時にクローレーが語った言葉は

 

「自分を守っただけで、このような目にあわされるんだ」でした。。

 

つまりクローレーは、多くの人々を殺したのは純粋に自分自身を非道な社会から守るための正当防衛だったと考えていたのです。

これは本当に極端な例かもしれませんが、ここから学ぶ教訓は

 

「人は同じ場所に立ち、同じものを見ていると思っていても、実際には同じものを見ているとは限らない」

 

ということです。

 

恐らく、死の直前に語った最後の言葉だけにクローレーの言葉に嘘偽りはなかったことでしょう。

そう考えると、凶悪犯のクローレーに取ってこの世は悪に満ちた最悪の世界であり、自身はこの世の最大の被害者と考えていたのかもしれません。。

 

日本の諺に「盗人にも三分の理」ということわざがありますが、要約すると、どんな悪党であってもそれぞれの理由、理屈があって何らかの行動を起こしている、ということです。

 

誤解していただきたくないのは、私は何もクローレーを擁護しているわけではありません。私が言いたいことは、この原則はクローレーだけではなく、大小あれど全ての人に当てはまるということです。



 

多くのトラブルは互いの違いを押し付ける時に起こる

私はクリスチャンですが、ボランティアで以前ある地域の教会を管理したことがあり、過去に何度か人間関係や夫婦関係の仲裁に入ったことがありました。

 

私は話をする前にまず一人ずつ面談し、双方の話を十分に聴くように心がけていますが、いつも感じることは、それぞれにはそれぞれの正義があり。それぞれが「こうして欲しい」また「こうするべきだ」という枠を持っていて、互いにそれぞれの枠を相手に押しつけてはめ込めこもうとして問題が生じていることが分かります。

 

私から言いますと勿論私も不完全ですから、私が持っている枠で判断しようとし、どちらか片方の言い分により多く共感することがありますが、それでも、どちらにも大小はあるものの、それぞれの正義とそれぞれの理由があることはわかります。

 

もう一度お伝えしますが、「人は同じ場所に立っていて、同じものを見ていても実際には同じものを見ているとは限らない、」のです。

 

実際には完全にその人になり、全く同じ経験を体験しない限りは、本当の意味でその人から見える世界がどのように映っているかは完全に理解することは出来ないということです。

 

 

真の裁きは完全な神のみが行える

 

聖書の中で神は「人を裁いてはならない、裁きは我にあり、あなた方はただ許しなさい、」と許すことのみを人に命じています。

難しいことではありますが、神様は不完全な私たち人間に他人を裁く資格がないと考えているのかもしれませんね。。

 

人を許すということで今日は一つの例を聖書から引用したいと思います。

 

ユダヤ人の信じる律法では「姦淫をした者は石を投げつけて殺さなければならない」という恐ろしい律法があります。

イエスキリストは正しい方でしたが、常にユダヤの律法学者たちから命を狙われていました。

そして、律法学者たちは常にイエスキリストを何とかして罪に定め、裁判に掛けて殺してしまおうと考えていましたが、ある時ユダヤの律法学者たちは、イエスを罠にはめようとしてある策略を謀りました。

その謀りごととは「姦淫の罪で捉えられた女を捕まえ、その人をイエスの前に連れてきて、イエスがその女に対してどのようなジャッジをするかでイエスを試し、もし、イエスがユダヤの律法にあるように『女を石で殺してしまえ!』というなら、

『あなたには愛と哀れみはないのか!』といってイエスを非常な冷徹な男として彼を悪人に仕立てようとし、

またイエスが『女を許してあげなさい』というなら、『ユダヤの律法をあなたは破った!』といって神への反逆者としてイエスを捉えようとした」のです。

 

以下は聖書からの抜粋となります。

 

「朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。

すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、

「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。

 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。

 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。

しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。

 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

 

イエスを試みようとして罪を犯した女を連れてきたユダヤ人の律法学者に対し、イエスが言った言葉は非常にシンプルな言葉でした。

 

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」

 

これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」

 女は言った、「主よ、だれもございません」。

イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。

お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

ヨハネ福音書8章2節~11節

 

ユダヤ人から尊敬され、尊ばれ、高い地位にあった律法学者たちは、イエスの言葉を聞くと、手に持った石を捨て、その場から一人一人立ち去って行きました。

ユダヤ人の中で高い地位にいた律法学者自身も自身が完ぺきではないことを理解していたので、女に石を投げつける資格が無いことを悟ったからです。

 

皆様はこの話から何を学ぶでしょうか?

 

神様からの視点から見ると誰も完全な人はいないので、誰も他人を罰する資格はないと考えているのです。(※これは裁判を否定するものではありません。民主主義によって選ばれた国の指導者達が法律(ルール)を定め、その国の民によって選出された裁判官が法律に則って人を裁くのは人が獣ではなく、人としての営みを行うためには必ず必要なことです)

 



 

どんぐりの背比べ

私たちから見たらそれぞれ他人と自分との成長と善悪の差には比べようのない大きな差があるように見える時があるかもしれませんが、完全で高い神の視点から見ると私たちの差なんて「どんぐりの背比べでほとんど差がない」と思われていることでしょう。

 

そして、殆ど差などないどんぐり同士が

 

「私はあなたより優れている!」

 

と背伸びをして互いに比べ合いをしたところで、神様からすると「笑えない喜劇」のように映るでしょうね。。

 

 

聖書は成功と幸福のヒント(原則)で満ち溢れている

私は以前ビジネスセミナーを行う際に時々聖書から聖句を引用することがありましたが、聖書の話を引用すると、「聖書の話はいい、ビジネスの話をしてください!」と言う人が以前いました。

 

私はビジネスの話をしているんですよ。ビジネスでも人生でも全ての成功には必ず必要な共通する原則があり、皆様が肯定しようが、否定しようが、その原則を理解し、その原則に沿わない形では大きな成功は得られないですよ

 

と話していました。

 

多くの成功者が、また世界のビジネスリーダーが良く口にする成功の「ゴールデンルール」(黄金律)、

 

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」

 

は聖書にあるイエス キリストの言葉です。

 

またそれ以外でもよく成功の原則を話すときに成功者はよく聖書を引用します。

 

成功の形はそれぞれですが、成功するための原則、また真理は一つなのです

 

人生で成功するためにもやはり成功する原則を理解し、活用し、またその道を通ってのみ成功することが出来ます

 

またビジネスそのものが成功に比例し拡大していくにつれて、より多くの人と出会い、接し、交わり、否が応でも多くの時間を共有することになります。

 

そしてそのように人との交わりが増えれば増えるほど、それに比例して様々な問題が生じてくる可能性が増えきます。

 

ぜひ、そのような中で様々な違い(バックグラウンド)を持つ人々が集まる時に生じる問題に皆様が直面するときに、そこから逃げるのではなく、皆様がどのように違いから生じる問題を捉え、対処し、その問題に関わっていくかが、皆様と相手との関係だけでなく、皆様の周りにいるチーム全体に大きな影響が及ぶことになるのです。

 

7つの習慣のスティーブン・R・コビー博士はこう言っています。

 

九十九人の心をつかむ鍵を握っているのは、ひとりの人に対する接し方だ。」

 



 

最後に

あなたのチームにもし、あなたが考える問題児が居たら、その時は、その人だけではなく、その人以外のチームの心を掴む絶好の大チャンスです!!

その人に対し愛ある態度、正義と哀れみと寛容の態度で接することで、その方は勿論ですが、それを見守るあなたのチームは、あなたの寛容な愛ある態度に感動し、あなたを尊敬し、あなたに対して一目置くようになるでしょう。

もし反対に、その問題ある方に対して、あなたが、冷たく、また冷淡な態度を取るならば、それは皆様のチームに対して

 

「あなたも、何かあったら同じようになるのよ!」

 

という物言わぬネガテイブなメッセージになってしまうのです。

そのようなネガティブな態度を普段から周りに見せていると、あなたが心から信頼し、愛し、仲良くしたいと思っている周りの人々はあなたからの仕打ちを恐れてあなたを信頼し、愛し、仲良くしたいと思わず、反ってあなたから距離を置くようになるでしょう。

 

何気なく考え、発言し、行動するあなたの行いと態度はあなたと接するすべての人へのメッセージとなるのです。

 

ぜひ、ビジネスという視点からだけではなく、人生を好転させ、より豊かな人生とするために、周りの人々に寛容で、優しく、思いやりある言葉で接し、何かあっても大きな心でその人を許し、励まし、共に手を取り合って歩んでまいりましょう!

 

人生を幸福にするためには、一人一人の違いを認め、何かあっても大目に見てあげ、赦し、愛し、そして、更にその人を赦し、愛し、大目に見てあげていただきたいと思います。

 

最後に聖書の言葉でお別れいたします。

 

「自分を愛してくれる者を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。

自分によくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。

また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。

罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。

しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。

そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。

いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。

あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。

人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。

また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。

ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。

人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。

あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから

ルカ福音書6章32節

 

皆様の人生が喜びで満たされますように!

そして、皆様を通して皆様の周りにいる人々の人生も喜びで満たされますように!!

 

このブログを気に入ってくださったら、この投稿をシェアしていただければ幸いです。 また、定期的に記事をご視聴になられたい方は下記「喜びには原則があったをもっと見る」に皆様のメールアドレスを入力し「SUBSCRIBE」ボタンを押していただければ、投稿の際に最新記事をメールで受け取ることが出来ますのでぜひご登録よろしくお願いいたします。

 

 


喜びには原則があったをもっと見る

購読すると最新の投稿がメールで送信されます。