皆様お元気ですか?
札幌は肌寒い日が続きますが、皆様のお住まいはいかがですか?

 

前回のおさらい

 

さて、前回の投稿では、「成長に伴い口から出なくなる言葉が3つある」とお伝えしましたが、覚えていますか?

 

それは、

 

「でも」

「〇〇しなければならない」

「もう知っている」

 

でした。

 

前回は「でも」を取り上げ説明いたしましたが、普段多くの人々が日常よく使う「でも」を使わないことで、どのようなコミュニケーションが図れるかを体感していただくために、「でも」を使ってコミュニケーションを図った「事例①」と「でも」という言葉を使わずコミュニケーションを図った「事例②」と 2つの事例を「Aさん」の心の声を文字に起こしながらAさんの心の声を文字におこしながら説明しました。

そして、恐らく前回の記事を読まれた多くの皆様は「でも」という言葉を使わなくても素晴らしいコミュニケーションが図ることができること、また「でも」を使わないことで、互いの関係性が強まったことを知って驚いたかもしれません。

そうです。

「でも」という言葉を使わなかった場合と「でも」を使った場合では天と地ほどのコミュニケーションの質に差が出たのです。

 

何気なく、私たちが日常で使う「でも」には、相手を否定する意味や、相手の言葉を聞きたくない、また自分を弁護する(言い訳)する意味があることを説明しました。

つまり、皆様が何気なく「でも」という言葉を口から発するたびに、同時に上記に述べた意志を相手に示しているのです。

皆様はこの2週間の間「でも」を使わずにコミュニケーションを図る努力をしてみましたか?

皆様がこの何気ない「でも」を使わないコミュニケーションを心がけるならば、皆様は急激に周りの大切な人々との信頼が好転し始めるのを体感し始めるでしょう。

ぜひ、「でも」を使わないコミュニケーションを日々努力し続けていただきたいと思います!

※前回の記事「成長に伴い口から出なくなる3つの言葉パート①」~でも~ は以下 ↓ のリンクから

https://joy-principle.com/3-words-that-stop-coming-out-of-your-mouth-as-you-grow-up-part-1-but/


 

成長に伴い口から出なくなる2つ目の言葉

さて、今回は「成長に伴い口から出なくなる3つの言葉パート②」をお送りいたします!

そして今回の成長共に口から出なくなる言葉は、

 

「〇〇しなければならない」です。

 

皆様、この言葉も日常何気なくよく使っているのではないでしょうか?

特にこの言葉は仕事上、または立場上タイトルが上の者が下の者に対して、また場合によっては同じ立場同士でも時々使ってしまう言葉ではないでしょうか?

もちろん場合によっては下の者が上の者に向かって使うこともあるかもしれません。

しかし、それはかなり強い感情(想い)が伴うときに使う言葉でしょう。

またその他にも親が子供に、夫が妻に、また妻が夫に、つまり間柄が親しければ親しいほど何気なく使ってしまう言葉ではないでしょうか?

ではこの何気なく使ってしまう「〇〇しなければならない」にはどんな意味、想いが込められているでしょう?ぜひ考えていただきたいと思います。

 

 

「〇〇しなければならない」とは

この言葉にも前回の「でも」同様 色々な意味(想い)が含まれています。

例えばこの「〇〇しなければならない」という言葉は、職場などでは「自分が企画したプロジェクトを推し進めたい」場合や、なんらかのもくろみのために「相手をコントロールしたい」または「〇〇を遂行しなければ仕事上危機的な状況になると考える場合」または反対に「〇〇を行えば大きな成果が見込めると強く信じている場合」などにこの言葉が使われます。

またその他にも「相手より優位に立ちたい」という想いや、相手を「支配したい」場合などに使われます。

もちろんこれ以外でも生死を分ける一刻を争うような緊急なときにも使われるケースがあると思いますが、今日説明する「〇〇しなければならない」は、生死に関わるような緊急の場合ではなく、日常何気に使っている「〇〇しなければならない」つまり「強制、支配、コントロール、自己顕示欲」等の意味を持つ「〇〇しなければならない」について考えてみたいと思います。

 

まとめると「〇〇しなければならない」という言葉には以下の意味合いが含まれています。

 

▪ 自分の欲求を満たしたい

▪ 思い通りに相手をコントロールしたい

▪ 相手より優位に立ちたい

▪ 強制 したい

▪ 支配したい



 

人は本能的に強制されたくない

「〇〇しなければならない」この言葉を聞く側の立場で聞くときにはこのフレーズを快く受け入れる人はあまりいないでしょう。

それは、人は元々誰からもコントロール、つまり強制されたくないからです。

たとえ心からその人を愛し、その愛を十二分に理解している血を分けた子供でさえ自身に対して向けられる親の支配的な態度は率直に嫌がります。

それは万物創造の神が全ての造りしものに権利として与えた尊い自由意志を脅かされるときに人は本能的に嫌悪感を覚えるからです。

 

 

戦争(争い)の原因

 

世界で起こる戦争(争い)の原因は様々ありますが、原因を3つにまとめると以下にまとめることが出来るでしょう。

 

・「宗教」

・「自由を勝ち取るため(または守るため)」

・「複雑な利権が絡む」

 

上記2つの戦争の要因である「宗教」「自由の権利を勝ち取るため」はいずれも「自由」が絡んでいます。

つまり、その権利を脅かされるときに人は戦争を引き起こしかねないくらいに、人は本能的に「自由を渇望」し、そのことに関して誰からも「強制」「支配」されたくないのです。

 

人は本能的に本来 人が持つはずの権利である「自由意志」を誰からも阻害されたくありません。それは老若男女を問わず全ての人が持つ、もっともシンプルで本質的な欲求であり強い願望です。この権利をコントロールされたり、奪われようとするときに人は本能的に強い嫌悪感を示します。

 



 

強制は神の本質に反している

 

私が集う末日聖徒イエスキリスト教会の聖典の一つ「教義と誓約」から一つの聖句を分かち合いたいと思います。

 


「すなわち,神権の権利は天の力と不可分のものとして結びついており,天の力は義の原則に従ってしか制御することも,運用することもできないということである。

なるほどそれらがわたしたちに授けられることもあろう。しかし,わたしたちが自分の罪を覆い隠そうとしたり,自分の高慢,自分のうぬぼれた野望を満たそうとしたり,あるいはいかなる程度の不義によってでも,人の子らを制御し,支配し,強制しようとしたりするときまことに,天は退き去り,主の御霊は深く悲しむ。そして,主の御霊が退き去ると,その人の神権,すなわち権能は終わりである。

まことに,その人は気がつかないうちに,一人放置されて,とげのある鞭をけり,聖徒たちを迫害し,神と戦う。わたしたちは悲しむべき経験によって学んだ。すなわち,ほとんどすべての人は,少しばかりの権能を得たと思うや,すぐに不義な支配を始めようとする性質と傾向がある

いかなる力も影響力も,神権によって維持することはできない,あるいは維持すべきではない。ただ,説得により,寛容により,温厚と柔和により,また偽りのない愛により,優しさと純粋な知識による。これらは,偽善もなく,偽りもなしに,心を大いに広げる

教義と誓約121章36節~42節

https://www.churchofjesuschrist.org/study/scriptures/dc-testament/dc/121?lang=jpn


 

ちょっと皆様にとって聞き馴染みのない言葉があったかもしれませんが「神権」とは分かりやすく言うと神様がもつ「権能」つまり「神の力」を表しています。

最後の方に「いかなる力も影響力も真剣によって維持することは出来ない、あるいは維持すべきではない」とありますが、要約すれば、「それがどんなに良い目的のためであろうと、神様の力をもって人を強制しようとしてはならない、またはすべきではない」と言っています。

また、人に影響力を与える手段は唯一「説得、寛容、温厚と柔和、偽りのない愛、優しさ、純粋な知識」によってのみ行い、そしてこれらが「嘘偽りなく、その人の心を大いに広げる方法である」とも書かれています。

 

 

強制されて育った子供は?

一つ私の経験をお伝えしたいと思います。

以前、教会で複数の教会が含まれているある地域を管理していた時、私が担当する地域の教会指導者達に、

「教会を管理する際にはそれがどんなに良いことに思えても『強制』によって無理やり人を管理しないように」という基本的な教会の管理に伴う原則を教えていました。

更にわたしが、

「人は強制ではなく、それぞれの自由意志を尊重し、遠回りに見えても、そしてそれが場合によって面倒くさく、非効率的に見えても、しかしそれでも無理やりその人を従わせるのではなく、忍耐と、柔和と、愛によってその人を導き、励ますようにしましょう」と説明したところ、

ある指導者はこのような質問をしてこられました。

「私は以前、教会にそれほど熱心ではなく、あまり教会の集会に参加しない信仰の弱い青年に対し、彼が熱心に教会に集えるようにするため毎週彼の家に訪問し、殆ど強制的に何度も彼を教会に連れてきましたが、そのために何度か叱りつけたりもしました。しかし、その甲斐あって彼は教会に熱心に集うようになりましたが、このような場合(結果が良ければ)強制しても大丈夫ですよね?」

その時私はその指導者にこのようにお伝えいたしました。

「あなたの行動によってその青年は幸運なことに教会に集い始め熱心に集うようになったことは大変素晴らしいことですが、ただ一つ懸念することは、強制によって成長した子供は、自身が大人になったときに自分の子供や周りの人にも同じような行動をとってしまう傾向があるということです。懸念するのは、彼が指導者になったときには同じように周りの人に対して強制的な対応を行うかもしれないということです」

 

実は様々な不幸な統計から、両親が離婚して育った子供は成人して結婚しても、そうではない人に比べて離婚する割合が高いことが統計に表れています。

また、子供時代に両親から暴力を受けて育った不幸な子供たちは自分が結婚して家庭をもつようになっても同じように自身の子供に暴力を振るう傾向が他の場合よりも高いことが統計に表れています。

もちろん、全ての子供たちが大人になった時にそのようなことをするわけではありません。殆ど多くの子供たちは成人して家庭を持つときに、親から受けた負の連鎖を自身の自由意志と努力によりそれを断ち切り、自分の子孫にその連鎖を引き継がせないように頑張っています。

ただ、それでも、残念ながら親から愛と尊厳を与えられずに(知らずに)育った子供達は、そうではない環境で育った子供に比べると、大人になったときに同じような不幸な態度を自分の愛する子供たちにとる統計が高いということは、如何に人の思考と言動と行動による影響力が良くも悪くも人々に多大な影響を与えることは間違いありません。

 

ただ上記に紹介した事例は、実際は、私はその話を指導者から聞いたときに、その指導者が愛情深い素晴らしい人物であるかよく知っていましたので、彼が「強制した」と言っても、実際には強制などではなく、深い愛情によって、我が子のように愛していたので、その深い愛のために、少々強い行動をとったのだと思いました。

そして教会に熱心に集うようになった青年も、それがその指導者の深い愛ゆえの行動であることが伝わり、またそれを青年がしっかり認識していたので、指導者の少々強引な教会の招きも恐らく「強制」などとは思わなかったでしょう。

そして指導者の深い愛情のおかげで教会に活発でなかった青年が教会に熱心に集うようになったのです。

 



 

 

強制したかどうかは相手の主観に依存される

ただ、それでも、もし目的が他の自己的な願望のためだけに、無理やりその青年を強制によって教会に連れて来ようとしたのであれば、その青年は教会に戻ってこなかったか、または、もし教会に戻ってきても、将来青年が指導者になったときに同じように強制で自分の想いを遂げようとし、悲しい結果を迎える可能性があるので、やはり、トップダウン形式で相手を無理やり強制する方法は気を付ける必要があります。

とどのつまり、強制されたかどうかは相手が受ける主観となるので、相手が「強制された」と思ったらそれは誰がなんといってもその人にとって「強制された」ことになり、こちらが「強制した」と思っていても相手が「強制されていない」と感じれば、それは相手にとっては強制されたことにならない、つまり全ては相手が受け取る主観により強制されたかどうかが決まるのです。

からこそ、どちらに受け取られるかが分からないので、特に人を管理する立場のある人は気を付けて言葉を選ばなくてはなりませんね

 

「〇〇しなければならない」という何気なく使ってしまっている この「強制によって人を管理」しようとする言葉、この言葉がどれだけ神の創造の力を持つ英知ある人類一人一人の霊を傷つけ、脅かしているという事を理解されたでしょうか?

そして、そのことを理解し始めた皆様は今後この言葉「〇〇しなければならない」を使う時には抵抗と違和感を感じ始めるようになるはずです。

そしてそれはとても良い傾向です!

ぜひ、この言葉に代わる言葉を探し、愛と忍耐と柔和と温厚な態度で忍耐して話していただきたいと思います。

 

 

「〇〇しなければならない」を使ってもよいケース

ただ、実はこの「〇〇しなければならない」という言葉がすべて悪いという訳ではありません、使ってよい場合があると思っています。

例外として「〇〇しなければならない」という言葉を使ってもよいケースは「選択肢を与える」場合です。

どういうこと?

つまり、このようなケースです。

「あなたは〇〇が欲しいのであれば」または、「あなたが〇〇したいのであれば」という具合に、相手に「する」「しない」の選択肢を設けた場合は「〇〇しなければならない」という言葉を使うことは問題ありません。

 

  • 「あなたがこの賞金を欲しいのであれば、〇〇をしなければならない」
  • 「あなたがこの答えを知りたければ、〇〇をしなければならない」

 

これらの場合は、選択肢を設けそれを行うか否かを選ぶ選択の自由を相手に考慮する場合は強制にはなりません。

または、話合いの前提に選択肢を用意して話す場合も「〇〇をしなければならない」という言葉を使用しても問題がありません。

他に選択肢、つまり選択の自由を考慮しており強制しているわけではないからです。

 

しかし、「一択」で他に選択の余地なく無理やりそれを強いようとするなら、これは「強制」になりますから、「〇〇しなければならない」という言葉は、自由を奪う、つまり神の計画に反することを行う言葉となるのです。

 

「〇〇しなければならない」または、その他の言葉であってもそれが強制的に人を支配しようとする意味が込められた言葉であれば、それは自分の想いを遂げようとする身勝手で浅はかな行為であり、近視眼的な視点で見ると結局のところ、中長期的には多くを失い大損します。

「慌てる乞食はもらいが少ない」のです。



 

 

強制しようとすると結果的に大損する

「〇〇しなければならない」つまり、近視眼的な視点だけを見て相手を否定し、自分の欲求だけが正しいと想いこみ、強制によって事を成し遂げようとした場合、その結果は分かりやすく結果を数字で表すと、

1+1=「1」または「0」です。

2ではなく、良くて「1」または、大抵の場合「0」となり何も生みだしません。

複数名が集まり何かを行おうとする時、相手の可能性を否定し、自分一人の考えだけを押し付けて何かを行おうとする時には相乗効果(化学反応)が生まれず、と言って、自分の力さえも発揮できず(人は強いられて行っても良いパフォーマンスは創出できない)、大抵の場合「0」またはよくてせいぜい「1」なのです。

強制する人は常に「1」または「0」なので、更に焦り、怒り、強制し、無理やり人を動かそうとしますが、更なる強要は、更なる負の連鎖を生み出すだけで、状況は更に悪化していきます。

強制する人は常に「1」または「0」または場合によっては「ー」マイナスになります。

 

 

最後に

皆様に心からお勧めいたします。

自身の近視眼的な視点から、また自分の欲求を満たすために神の創造の力である「言葉」を通して「〇〇しなければならない」という言葉を習慣的に口から発しているなら、それは本当に気を付けた方がいいです。

なぜなら、それは創造主ある神から全ての人類に等しく付与された「自由意志」を冒涜する行為であり、また神の力を使って神の計画を踏みにじろうとする「反逆行為」でもあるからです。

そして、万物の創造主である神の計画に反する行為は、そもそも神が支配する全ての原理原則、また法則に反するので、皆様は回復の原則により、因果応報により、引き寄せの法則により、然るべき結果を自ら刈り取ることになります。

それは、本当に怖ろしく愚かなことです。

 

さあ、皆様 意識して「〇〇しなければならない」という言葉を使わないよう努力しましょう!!

そして、皆様の人生から「〇〇しなければならない」という言葉を完全に捨て去りましょう!!

もし、皆様の口から「〇〇しなければならない」という言葉を意識的に無くせれば、その瞬間 皆様の人生は間違いなく好転し、明るく輝いた世界で満たされることでしょう!!

そして、「〇〇しなければならない」という言葉を意識せずとも口から出なくなる時に、皆様の思考は変化し、それまで見えなかった周りの人々に神の才能と栄光、そして大いなる可能性を見出し驚くことでしょう!!

皆様の人生が喜びに満たされたものとなりますように。

次回は「成長に伴い口から出なくなる3つの言葉パート③」最後となる「もう知っている」をお送りいたします!

お楽しみに!

 

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